科学研究というものは、普通はなんの役にたたない。
膨大に無駄な研究があり、その中の成果のほんのごくごく一部が、
必要不可欠な知見として受け継がれ、科学は進展する。
ほとんどの研究成果は、このための礎として、忘れ去られるのである。
しかし、この”無駄な研究”の積み重ねこそが、科学の進展にとって重要なのだ。
なんの役にも立たない研究をなぜするのか?
それは、純粋に興味本位に、好奇心から、ものごとを解明したいと思う研究者がいるからだ。
役に立たない研究をする研究者がいなくなれば、科学は止まる。
さて、現在、プロとして、科学研究を遂行できる立場のものが存在するだろうか?
おそらく、答えは否である。
少なくとも、現在の日本にはほとんどおるまい。
今や、役に立たない研究は、させて貰えない時代だ。
役に立たない研究には、研究費がつかないし、それだけでは研究者の身分があやうい。
研究のプロは、給料の対価として、役にたつ(と説明可能な)成果を求められる。
本当に役にたつ研究成果というものは、実のところ、ほとんど皆無に等しい。
役にたたないものを、いかに役にたつと説明できるかにかかっている。
プロの研究者は、この説明に多くの労力と時間を費やす。
つまり、「役にたつ成果」の制作に勤務時間を費やし、その労働の対価として給料を貰う。
この説明・制作能力こそが、プロの研究者の素養として重要な点であり、
その能力の高いものが、”一流の”研究者になれるのである。
一方、役にたたない好奇心のみにもとづく研究は、余暇の時間を費やしておこなう必要がある。
つまり、科学研究は、常にアマチュアリズムに基づいて行われる。
この両者を両立できるものは、”超一流の”研究者だろう。
しかし、だとすれば、プロの研究者である意義は、どこにあるのだろうか?
生活の糧をえるための労働は、なにも研究である必要はない。
いかなる職にあっても、余暇において、好奇心を満たす研究を行えばよいのである。
自身の好奇心、知的欲求の強さに自信をもち、
いづれの立場にあっても、科学的思考にもとづいて行動する
アマチュアの科学研究者こそが将来の科学を進展させるのだろう。
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