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自由と責任

2012/02/08(Wed)14:57

人生、あらゆるところに岐路がある・・・ように見えます。
その分かれ道をどちらに進むか、自由に選択できる・・・ように見えます。
そして、それぞれの自由意思によって選択するのだから、
その結果には責任を持たなければならない。というのが、「自由と責任」らしい。

じゃあ、逆ならどうなの?・・・と、素朴に思う。
選択の自由がなければ、結果に責任はないの?

ミヒャエル・エンデの「自由の牢獄」、話としては面白いんだけど、
結局、選択の自由などというものは存在せず、また、
選択の自由も責任も、ない方が幸せだと言いたいのかな?

そういう趣旨だとすれば、なんとなく、納得できない。


確かに、本当に等価な選択肢であれば、その選択肢は選びようがない。
だから、その場合に、「選択の自由は、選択の不自由である」というのはそうかもしれない。
そして、後述するように、究極的には、選択は個がするのではなく、
個を個たらしめる環境が選択させるという場合には、
確かに、選択の自由というものは、存在しないかもしれない。

しかし、自由の牢獄の主人公は、どの扉をあけるかを決断しないでおくことが、
最も良さそうな選択だと判断して、どの扉も開けなかったんじゃないのかな?
つまり、「複数の扉」という等価な物うちのどれかという選択肢ではなく、
能動的に行動を起こすか、あるいは、受動的に成り行きにまかせるか
という2つの選択肢のうち、彼の自由意思に基づいて、後者を選択した。
そして、心の平安を得た。めでたしめでたしである。

岐路において、どちらを選択するかは、各人を取り巻く現在および過去の環境
つまり、それまでに持ちえた知識や経験を踏まえた価値観に依存するだろう。
文化圏ごとに自明と感じられる選択もあるし、そうでないものもあるだろうが、
少なくともその環境を背景とする本人にとっては、その選択は自明なものである。
だから、自由の牢獄の主人公にとっても、それは必然的な選択だったはずだ。
#選択の自由のない心の平安を幸せとするのは、彼の価値観によるのでしょう。
#私の価値観とは、ずいぶん違う・・・世の中、波乱万丈の方が楽しいやん?

完全に等価なものは、選択肢とはいわないように思うし、
それ以前に、そもそも完全に等価であるということは、ありえない。
世の中の選択肢は、互いに等価ではないから、人は、それぞれを天秤にかけて
各人の価値観において、より良さそうな方を選ぶことができるんじゃないかな。
そして、その人の価値観においては、その選択をすることが必然であるし、
したがって、それが唯一の道となる。
つまり、そういう意味では、たしかに、そもそも選択肢はないのかもしれない。

#確かに、どっちを選ぶか、本当はとっくに決まってるのに、
#なんとなく、決まってないフリをしたいだけなんじゃないかと思う時もある。
##というわけで、一歩前へ! なわけです。

#♪ どんなに迷っていても 道は一つしかない ♪
#♪ 僕の前から広がる道さ この道行くしかない ♪
#たまに聞いて、口ずさんで、もうかれこれ、30年ぐらい、
#だいたい、いつも泣きながら歌います。
##この方も、そんな感じみたい。同世代ですね。→ ゆうきのブログ


(LPも持ってたけど、CD買いなおしてしまったのである)


で、話をもどして、「選択の自由がなければ、結果に責任はないの?」である。

「責任」とはなんぞや?というと難しい話になりそうなんだけど、
「責任」を「自由」と対の概念とすれば、自由がなければ、責任はない。
極論としては、環境が個を作るとすれば、個には自由も責任もない。
すべては、環境の責任ということで、話は、とっても簡単である。メデタイ?

ところが、一方で、個々人は、他者にとっては環境の構成要素となる。
つまり、特に社会的な環境というのは、個の集合ということもできるだろう。
個々人が責任を認識することで、環境に秩序が生まれるんじゃないかと思う。
逆にいうと、だれもがみんな、環境のせい、他人のせい、と言いあっているとすれば、
社会秩序はないし、世の中が成立しないんじゃないだろうか?

だとすれば、選択しようがしまいが、そこに自由があろうがなかろうが、
個は責任を持つべきであるし、自分の現状を受け入れ、
自分の現状と関係を持つ事柄についての責任を認識する必要がある。
自由の牢獄の主人公だって、ちゃんとその現状を享受し、
伝道者(?)としての責任をはたしているともいえるんじゃなかろうか。

自分のせいであろうが、誰のせいであろうが、現状で起こっている身の回りの事柄に、
できるだけの対応をするのは、まあ、当たり前といえば、当たり前ですよね?
これが責任、responsibilityって奴じゃないのかな?


#右の本が今回の話題の発端なんだけど、あんまり読み進めない感じの本です。
#他人の意見を紹介して批評する割に、自分の意見はどうなのか、なかなか断言しない。
#いいまわしがもったいつけた感じで小難しく、読みにくいと感じました。

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