もちろん、立派なお題目は色々とあるけど・・・まあ、それはおいておいて、
大多数の人にとって、大学というのは、「遊ぶためにいくところ」であり、
就職で不利にならぬように、あるいは、世間体のために「一応行っておくところ」であろう。
「遊ぶため」というと、乱暴な言い方だけれども、
新たな人や物事との出会い、様々な挑戦と失敗、社会性の獲得など、
大人になりきる直前の「遊び」の場と時間を持てるという点こそが、
「大学生」というものになる最大のメリットであろうと思います。
大学における専門教育で身につく専門性が、実社会において、およそ役にたたないことは、
既に周知の事実であるし、社会(会社)も、その専門性には期待していない。
「高卒では就職に不利」とか「大学ぐらい出ておかないとカッコ悪い」
というような風潮は、いい加減、どうにかして欲しいものだと思うけど、
大学入学試験を突破することで、社会においてより重要な小・中・高校での
普通教育による教養を身につけていることを証明することは意味があるかもしれないし、
会社や世間が、「大学生」として「遊んだ」経験を評価しているのだとすれば、
この風潮は肯定してもいいのかもしれない。
したがって、大学に求められる機能は、
1)普通教育による一般教養を習得していると証明すること
2)ゆるやかなルールと保護のもと、比較的自由に遊べる環境を提供すること
の2点に尽きるのではないだろうか?
上述のような「大学合格を評価する風潮」がありつづける限りは、
相対的には、大学合格者の一般教養習得度のレベルも維持されよう。
しかし、「大学」そのものの評価がこのまま下がりつづければ、
大学卒のステータスが消滅する日も近いのではないだろうか?
その場合、大学に代わる「遊びの場」が必要になり、評価されるようになるのかもしれない。
そんなわけで、大学は、大学そのものの評価の向上に努めるわけで、
一応は、様々な種類の「社会の役に立つ人材の養成」を掲げて取り組むわけだが、
誰も期待していないものをどうやって評価させればよいのか、お手上げな感が強い。
社会の役にたつ人材って、極論すれば、教えてできるもんじゃないですから、
講義(高校みたいな授業)をいくらやったって、そんな人材は養成されない。
(純粋に技術を習得させるというのであれば、それなりになんとかなるが・・・)
人材養成というは、学生ひとりひとりの個性に合わせて、手間ひまかかるもので、
とてもじゃないけど、今の先生方の熱意では、あれだけの学生数はこなせません。
#もちろん、すばらしく熱意をもった先生の存在も信じていますが、例外といえるでしょう。
でも、大学というお役所は、取り組みの新規性を紙上で示さなければならないから、
実際には何をやってるかというと、新しいカリキュラムを作っては、
講義数(必須単位数)をどんどん増やしてるわけです。数で表現するのが一番分かりやすい。
#おかげさまで、学生さんたちは、どんどん忙しくなって、遊ぶ暇もないようです。
#見ていて、なんだか、とても、かわいそう・・・・
現在の大学生の悲劇は、大学が徐々に遊び場でなくなっていることかもしれない。
「大学に代わる遊び場」をどう作るか?
・・・ただいま思案中なんだけど、
なんとなく、
昨日のビジネスモデル案とも関連する気がしてきた。
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